ちょっと前にミンネラボの件を書いたブログ記事、まおさんがその後のインスタライブやYouTubeでも話題にされていたのをいくつか拝聴しました。
あの記事でアウレリウスの引用があったことが結構びっくりポイントだったようですが、私の認識では、アウレリウスの「自省録」は、大昔の偉い人が言った言葉をまとめた本としては、比較的ポピュラーな方だと思います。
ただ、「自省録」は、まともに読むと回りくどいので、自分用に、これだけ押さえておけば大丈夫というダイジェスト版を作っています…😅

🐈🐈マルクス・アウレリウス「自省録」マイ・ダイジェスト🐈🐈🐈

✿善い人間の在り方如何について論ずるのは、もういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ。

✿君に害を与える人間がいだいている意見や、その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。あるがままの姿で物事を見よ。

✿隣人が何を言い、何を行い、何を考えているかを覗き見せず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を獲ることであろう。

✿人は各々、自分を他の誰よりも愛していながら、自分に関する自分の意見を、他人の意見よりも重んじないのはどういうわけだろう。

✿我々を悩ますのは彼らの行動ではなく、これに対する我々の意見である・・・我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうが、どれだけ余計に苦しみをもたらすことであろう。

✿人に善くしてやったとき、それ以上の何を君は望むのか。君が自己の自然に従って何事かおこなったということで十分ではないのか。その報酬を求めるのか。それは、眼が見るからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変わりない。なぜならば、あたかもこれらのものが、各々、その特別の任務のために創られ、その固有の構成に従ってこれを果たし、そのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。

🐈🐈🐈🐈以上抜粋🐈🐈🐈🐈

大昔の偉い人が言ったことや書いたものは、殆ど学生時代に読んだものですが、意外なときに意外なところで役に立つものだと実感したことがあります。
例えば、私は、お勤めしていたころは何年か管理職をしていましたが、管理職の職務遂行の上でも、「大昔の偉い人が書いたもの」が、実際、非常に役に立ちました。

私がお勤めしていた会社は、もともと統計関係の会社として出発したこともあり、何でも数値化して評価、判断するのが慣行となっていました。
「管理職者がきちんと期待された役割を果たしているかどうか」についての評価も例外ではなく、この点、毎年グローバルレベルで一斉に実施される従業員満足度調査を通じて、管理職者一人一人について、数字で成績がつけられていました。

私は部門を二つ持っていましたが、いずれの部門についての調査結果においても、日本支社内で二位というハイスコアで、当時の上司からは、
「あなたの部署の人たちって、皆さん幸せそうに働いてますよね…」
などと不思議そうに言われていました。
不思議そうだったのは、恐らく、私が完全在宅勤務をいいことに殆ど出社せず、いるのかいないのか分からないくらい存在感が希薄なマネージャだったせいだろうと思います。

しかし、管理職者がむやみと前面に出て、こんなに頑張ってますと存在をアピールするというのは、管理職者に求められる役割に照らして、適切な行動とは言えないのではと思います。
管理職者は、自分自身がプレイヤーだったころとは違って:
① 部下に働いてもらうことで、部門に割り当てられた経営上の目標を達成する。
② ①を通じて自分の後継者を育成し、自分の身に何かあってもすぐに部下が代わりを務められるようにしておき、自分が欠けても企業の生産性、品質がレベルダウンしない体制づくりをする。
という2つの責任を負っています。
①と②両方とも、どう読んでも、
「管理職者は後ろに引っ込んでろ」
という意味に読めないですか?

少なくとも、当時の私はそう解釈していたので、自分自身は裏番ないし黒子の役割に徹するよう心がけていました。
そして、自分ではなく部下の皆さんが表舞台にどんどん出て、仕事上のスキルにも社内政治の荒波を渉っていくスキルにも自信を持てるようになり、自分に合うポジションにステップアップしていけるよう、陰ながらお祈り…ではなく、裏でせっせと糸を引いていたわけです。
この糸引きもなかなかデリケートな仕事で、引き方を間違えれば、自分の思惑とはまるで違った方向に話が動いてしまうため、ことは慎重を要します。
私の場合は、この糸引きの匙加減を決める際、「大昔の偉い人が書いたもの」がかなり大きく影響していました。

それは、
「何よりもそんなにご自分のことを恥ずかしくお思いにならないことです。なぜってそれがすべての原因ですからの」
という一つのセリフでした。
これは、大昔の偉い人、すなわちロシアの大文豪ドストエフスキーが書いた超有名な小説「カラマーゾフの兄弟」の中で、ゾシマ長老がフョードル・カラマーゾフに言ったセリフです。

実際、自分の至らなさへの羞恥心から、やらなくていいことをやる、言わなくていいことを言うなど、言動に無駄が多くて落ち着きのない人は珍しくありません。
私の部下の方々の立ち居振る舞いにそうした傾向がみられると、いつもゾシマ長老のこの言葉が脳裏に浮かんできて、どんな風にアプローチすれば、この人はもう少し落ち着くんだろうとつらつら考えていたものです。
部下の方一人一人との月一の個別面談においても、普段の接し方においても、できるだけ安心してもらうことを重視して、かなり緩い部門運営をしていたと思います。
その結果、皆さんがリラックスしてα波を出しながら仕事に取り組めるようになり、余計な緊張やストレスがない分、仕事ははかどり発想力も豊かになり、部門全体として、エンゲージメントレベルの高いハイパフォーマー揃いになったのでしょう。

勤め先の当時の副社長は、マネジメントはサイエンスであるという思想の持主で、自分の経験や勘だけを頼りに、人や組織の管理をすることには反対というスタンスでした。
その影響もあり、私も、管理職者の一般教養として、イギリスのビジネススクールでマネジメントサイエンスを一通り学びましたが、その内容は、殆どがフレームワークの習得と具体的なケースへの応用でした。

しかし、現場で実際に人のマネジメントに当たる際には、そうしたサイエンスの範疇に入る内容だけではなく、子どものときに親から受けたしつけだの、思い出深い風変わりな先生のちょっとした一言とか、徹夜して号泣しながら見た映画とか、図書室の床に座り込んで読み漁った小説で目にした「大昔の偉い人が言ったこと」、そうしたものから自分が切り取ってため込んできた断片が、意外と大きく生きてくるものです。

マネジメントサイエンスは、独学でもオンラインでも十分習得可能ですし、勘のいい人なら、学んだことを自分の仕事に応用するのも、さして困難ではないでしょう。
それよりも、仕事外のところで自分が経験することをおろそかにせず、十分に咀嚼してエッセンシャルなところは自分の骨身として身に着け、自分のマネジメント業務の道しるべとして活用する意識を持つ方が大事かもしれないです。

常に忙しい中に身を置いていると、仕事以外のことを機械的に無駄と切り捨ててしまいがちですが、本当にそうでしょうか。
パフォーマンスというのは、単に求められた量のものを決められたスケジュール通りにアウトプットすればいいわけではなく、アウトプットするものの質が厳しく問われます。
特に、何らかの形でpeople managementにかかわり、自分のアウトプットのクオリティに直接的な影響を受ける人がいるなら、自分のインプットのクオリティを継続的に改善する努力、そのための時間は、無駄として扱われるべきものではないでしょう。
従って、忙しい中にあっても、半ば強制的にでも完全に仕事から離れて、大昔の偉い人が言った言葉に触れるなど、業務外のインプットのための時間を取ることには、十分な意義があるはずです。
これは、個人レベルで意識的に対応したいことでもありますが、組織がこうした時間の使い方の価値を認め、積極的に推奨すべきことでもあります。

創作家の時間の使い方についても、全く同じ事が言えます。
自分が制作して発表したものに触れて、色々な人が色々なことを感じて自分に必要なところを切り取って、その後何年も何年も、その切れ端を大事に持っていたりする(「村上さんのところ」で、学校の先生への言葉として書いてあった通りです)。
それなら、できるだけ品質のいいものをアウトプットできるよう、自分のカードの種類を増やし、内容も刷新していきたい。
今の手持ちのカードだけで対処していると、カードも段々擦り切れてきて、いい仕事ができなくなりますので、ヒトとしての総合力を高めるための時間は効率化の対象外として扱うべしと、肝に銘じておく方がいいでしょう。

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アイキャッチの画像は、現在札幌の展覧会に出品中の葉っぱシリーズの一つ、”bye-bye, elixir”という作品です。
自分に必要ないものは振り落とす葉っぱを描いたものですが、邪念に惑わされて余計なことをせず、本当に必要なことにフォーカスして清々しく生きたいものですね。
この作品のコンセプト詳細はこちらです。